みんなの大部屋
本気の無駄話を不定期にお送りします。
第五福竜丸
こんにちは。土曜のありこです。
秋雨が続く今日この頃ですが、皆さん体調はいかがでしょうか。
第五福竜丸展示館へ行って参りました。 第五福竜丸、それは、1954年(前年まで朝鮮戦争をしていた頃)アメリカによるビキニ水爆という、広島の原爆の約1000倍もの破壊力をもつ爆弾の爆破実験で、高さ35キロに達する「死の灰」の被害にあった漁船です。
1954年3月1日 漁船の当直日誌によれば、夜明け前にもかかわらず非常に明るくなり煙柱があがり、2時間後には甲板に足跡が付くほどの灰が降りました。身の危険を感じ、5時間後に海域を脱出するも、被爆した乗組員は体の表出していた部分や衣類の隙間から入り灰が溜まった部分などに火傷のような症状が現れます。
死の灰が展示されていました。当時は何ベクレルあったのだろう。
上の写真は、当時のガイガーカウンターなのそうです。
被爆の症状もさることながら、お布団が小さくて…これで何日も何日も、日本の家族から遠く離れた広い海の上、変化してゆく体調で不安の中を寝ていたのかと思うとなんだかすごく胸が痛みました。
日本に帰国した日です。その日からめくられることのなかったカレンダー。
被害にあったのは第五福竜丸だけではありません。近隣の島の住民、ほかの漁船も。展示館にはそれらのパネルもありました。さらに、太平洋の広い範囲が汚染され、日本の水産業や消費者はパニック状態に。第五福竜丸以外の被爆地周辺にいた船は500隻以上もいて、それらは健康被害なしとされ、補償の対象にもされなかったそうです。
当時の新聞です。
「遺体 画期的解剖に」
「放射能雨平気です 商魂に乗ってお目見得」
個人的にはものすごく違和感を覚える文言です。
ー 魚屋殺すにゃ3日はいらぬ、ビキニ灰降りゃお陀仏だ ー
水産業の会社や、鮮魚店は大打撃だったそうで、こんな言葉が街を駆け巡ったそうです。これで廃業に追い込まれた魚屋さん、補償もなく、どんな思いだったでしょう。
今も築地市場の地下深くには、放射能汚染で廃棄されたマグロなどが沢山、骨となって眠っています。そのために、マグロ塚も作られました。
3つの「読む証言」が並んで配置されていました。
被爆から半年で亡くなられた久保山愛吉さんのご家族、漁労長の見崎吉男さん、第五福竜丸乗組員の主治医であった熊取敏之医師の手記です。
個人的には特に熊取医師の手記には心打たれました。これから行かれる方にはぜひ、この医師の手記はご一読いただきたいと思いました。
第五福竜丸の際も、当時の米ソの関係もあり、CIAからは漁船が故意に近づいたんではないかという嫌疑をかけられたそうです。
階段をあがると、第五福竜丸の甲板を見ることができます。ここに、死の灰が降り積もったのです。
実際に押せて音の出るモールス信号の機械や、外には第五福竜丸のエンジンも展示されています。 この展示館自体も、船ありきの建造物として建築されたのだということが分かりました。それでこのような不思議な形になっているのだと…。
最初に亡くなられた船員、久保山愛吉さんの慰霊碑があり「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という故人の言葉が彫られています。
映画『ゴジラ』は最初、このビキニ水爆実験の年に作られ、ゴジラが放射能火炎を吐いて都市を破壊するところから始まる…少なからず関係のあった作品なのだそうです。恥ずかしながら初めて知りました。時代を経て、新ゴジラがどうなのかというと分かりませんが…。
展示館の出入口付近には、色んな都市の小中学校から贈られた平和を祈る千羽鶴がありました。戦争は常に、今も地球のどこかで起こっていますが、この願いは果たしていつ届くのでしょうか。
入場料無料です。写真撮影も可です。この施設はあまり知られていないようですが、ぜひたくさんの人に足を運んで欲しいと思いました。多くのことを感じることができる、大変良い施設です。
出入口には「ベン・シャーン」の絵も頭上に飾られていました。5年以上前だったと思いますが、私は葉山で開かれたこの画家の展覧会に行きました。絵本も買いました。素晴らしい画家だと思っています。
1955年1月4日 この第五福竜丸の事件は「法律上の責任問題とは関係なく、慰謝料として200万ドル(当時7億2千万円)をアメリカが支払う」ということで決着がついたとされています。
秋雨が続く今日この頃ですが、皆さん体調はいかがでしょうか。
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上の写真は、当時のガイガーカウンターなのそうです。
日本に帰国した日です。その日からめくられることのなかったカレンダー。
被害にあったのは第五福竜丸だけではありません。近隣の島の住民、ほかの漁船も。展示館にはそれらのパネルもありました。さらに、太平洋の広い範囲が汚染され、日本の水産業や消費者はパニック状態に。第五福竜丸以外の被爆地周辺にいた船は500隻以上もいて、それらは健康被害なしとされ、補償の対象にもされなかったそうです。
当時の新聞です。
「遺体 画期的解剖に」
「放射能雨平気です 商魂に乗ってお目見得」
個人的にはものすごく違和感を覚える文言です。
ー 魚屋殺すにゃ3日はいらぬ、ビキニ灰降りゃお陀仏だ ー
水産業の会社や、鮮魚店は大打撃だったそうで、こんな言葉が街を駆け巡ったそうです。これで廃業に追い込まれた魚屋さん、補償もなく、どんな思いだったでしょう。
今も築地市場の地下深くには、放射能汚染で廃棄されたマグロなどが沢山、骨となって眠っています。そのために、マグロ塚も作られました。
※クリックすると拡大できます
アメリカの核実験自体のこともいくつかパネルになっていました。この文言に注目してください。311の福島の時とそっくりだと思いませんか?3つの「読む証言」が並んで配置されていました。
被爆から半年で亡くなられた久保山愛吉さんのご家族、漁労長の見崎吉男さん、第五福竜丸乗組員の主治医であった熊取敏之医師の手記です。
個人的には特に熊取医師の手記には心打たれました。これから行かれる方にはぜひ、この医師の手記はご一読いただきたいと思いました。
※クリックすると拡大できます
現在アジア近隣の某国の核実験が騒がれています。確かに非常に由々しき問題です。ただ、過去を見てください。この核実験の量。非難轟轟浴びせる国に限って、自国はどうなのですか?と言いたい。桁外れじゃありませんか。そして、この事実をきちんと把握している人が、日本に一体どれくらい居ますか?第五福竜丸の際も、当時の米ソの関係もあり、CIAからは漁船が故意に近づいたんではないかという嫌疑をかけられたそうです。
最初に亡くなられた船員、久保山愛吉さんの慰霊碑があり「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という故人の言葉が彫られています。
※クリックすると拡大できます
同じく船員の大石又七さんの創られた第五福竜丸の模型。はえ縄用ビン玉を模したビー玉に「PEACE」「平和」という文字が書かれていたところに、また何とも言えない気持ちになりました。映画『ゴジラ』は最初、このビキニ水爆実験の年に作られ、ゴジラが放射能火炎を吐いて都市を破壊するところから始まる…少なからず関係のあった作品なのだそうです。恥ずかしながら初めて知りました。時代を経て、新ゴジラがどうなのかというと分かりませんが…。
展示館の出入口付近には、色んな都市の小中学校から贈られた平和を祈る千羽鶴がありました。戦争は常に、今も地球のどこかで起こっていますが、この願いは果たしていつ届くのでしょうか。
入場料無料です。写真撮影も可です。この施設はあまり知られていないようですが、ぜひたくさんの人に足を運んで欲しいと思いました。多くのことを感じることができる、大変良い施設です。
出入口には「ベン・シャーン」の絵も頭上に飾られていました。5年以上前だったと思いますが、私は葉山で開かれたこの画家の展覧会に行きました。絵本も買いました。素晴らしい画家だと思っています。
1955年1月4日 この第五福竜丸の事件は「法律上の責任問題とは関係なく、慰謝料として200万ドル(当時7億2千万円)をアメリカが支払う」ということで決着がついたとされています。
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プロフィール
HN:
性別:
非公開
職業:
ギター屋、毒ガス屋、台灣屋、ロボット屋、他、沢山
自己紹介:
ギター屋 栗山
毒ガス屋 小俣
ロボット屋 うどん
台灣屋 ありこ
を中心に、様々な自己中話を投稿していきます。
歴代メンバー
・将棋屋 師匠(2017年8月20日まで)
・クレープ屋 石井(2018年8月8日まで)
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